魂のワークブック

何だろう?私と世界にプレゼントしたいもの♪

 
 早稲田の福田先生のところには、好きに持ち帰ってよいプリントがいろいろあります。
 今日はその中のお気に入りの一枚です。

  

                  やりゆぅ                   
                  福田高規

 ◯土佐弁
 私の母方の祖父は高知市の東、物部川の先、三宝山の麓の農夫であった。農業のかたわら、峰雪という名で、屏風絵やふすま絵を描く狩野派の画家。写生のために、携帯用の筆を愛用していた。
 いちいち丁寧に連絡するタイプで、生前は、今で言うメールが来た。
 「おんしんくの田んぼの前を通ちょったらな、稲が・・・・・と言いよったぜよ、なんとかしちゃらぁにゃあ」 という具合である。
 私は、小学生になる前と中学生の後半しか高知にいなかったので、土佐弁は使えない。ところが、高知で親しくしていた友人は、東京に住んでいても、私の顔を見たり、私が電話に出るとよどみない土佐弁しか出てこなくなる。標準語が頭の中から、どっかに行ってしまうのだ。
 当然、ここに登場ねがう祖父は、私に向かって標準語などを使う筈がない。
 「やりゆぅ」 は、語尾を上げると 「元気にやっていますか」 という挨拶コトバになる。
 生まれ育った郷土のコトバは、部落が違うと、いや、小さな流れの右岸と左岸で、微妙に違う。そして、現地の人々はそれを聞き分ける。 「やりよぅ」 という人もいる。
 私の叔母が私に声をかけるときは、やさしく 「やりゆぅかね」 という。私は語尾を下げて 「やりゆぅよ」 と答える。
 おじぃやんのメールは、こういう説明なし。皆さんがすでにご存知の話が展開する。土佐弁のムードを楽しまれたら、もう充分。そして話だけで終わらずに 「やっとうせ」。

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高知市の東、物部川



 ○おじぃやんのメール
 天国のおじぃやんから、突然メールが来た。
 「やりゆかよ」 「やりゆぅよ」
 「何やりゆぅ」 「あしゃあ、エドガー・ケイシーの押し掛け弟子をしゆぅよ」
 「江戸崖の石かね」 「いや、ケイシーはアメリカ人の名前。人間の心は、自分の体験を造ると言うて、大勢の人々を救ちょった観音様のような人ぞね」
 「観音様のような立派な石のところに押し掛けている弟子か。おんしゃあ、いつまでも、こんまい砂利石のままでおったらいかんぜよ。大切なことを教えてもろぅたら、とにかくやらにゃあ。やっちょったら、大きな石になるきに」 「・・・・・」
 「聞きゆぅかよ」 「聞きゆ」
 「この地上に生きてるおまんらぁは、誰でも皆、この今、自分自身が観音行をしゆぅきに。普通、多くの人は、観音様の慈悲と知恵の活き活きした働きを知らんずつ行動し、生活しゆう」
 あしらぁは皆誰でも、観音様の分身ぜよ。おんしの肉体は、このまんまで、宇宙のあらゆる次元を通して働いておられる観音様の動く観音堂よ。
 日々の生活は、観音様があしらぁを通して絵を描きゆぅようなもの。過去に描いちゅう絵の上に、自分らしい新しい絵を重ねて描く意味深い行(行い)が人生にかわらんぜえ」 
  
 「観音様といっしょに働くには、まず、これから、どうゆう生活体験をしたいかをハッキリ決めや。おんしが決めにゃあ、観音様はどうやっておんしを助ける。そして、おんしを通し、日々に働いておられる観音様の深い知恵を自由自在に活かして生活しぃや」
 「日頃から、観音様の知恵と慈しみが自分を通して働いていると感じ、その感じを深々と観じ、具体的に必要なことを、観音様とごいっしょに行動しちょればえいちや。
 観音様は、完全な知恵と慈しみ。完全な造る働き。あしらぁの体験を造る完全な仕組み。感覚的には広大無辺。自由自在。間(ま)。空。時。静けさ。光。全部ひっくるめて、あしらぁが一体感を観じている時、その働きとして、活き活きと 『ありゆぅ波動』 。
 おんしらぁは、日常の生活の中で、自分に必要なものは何でも 『ある』 と決めつけ、思いこみ、感じきったら 『ある』 。 その 『ある』 を自分の体験にしよらぁ。その体験は 『ありゆぅ』 が変化したもの。 『ありゆぅ』 が変化しゆぅだけで、ないものは何もないんや」

005 のコピー


  
 「こんなこと知っちょるだけでは何の役にも立たん。あしらぁは誰でも皆、観音様。自分が観音様をハッキリ感じ、その感じを他の人やまわりに観じる癖をつけぇや。例えば、自分が宇宙のあらゆる次元で働く観音様の慈しみの光になって周りを照らして見なさい。
 自分を通して光があふれ出て行く。そうしゆぅ時はな、あれやこれやのよけいな考えや悩みは、自分が放つ多彩な光の影にしか見えんようになる。影は影よ。そのまま行かし」

 「人は、こだわりなく、過去の上に何でも描ける。自由自在よ。どうでもえいことや過去にこだわれば、こだわるという絵を描きゆうことになって、こだわりの体験をする。こだわりは自由自在やない。考えや気持ちがとどこおる。体も疲れてしまう。つまらんぜ。
 でも、こだわっちゅう自分にもこだわりな(命令形のあとにくる 「な」 は否定形」)。観音様への供物にしなさいや。この今も、おんしらぁの意識と肉体を通して、とどこうりなく働きゆう観音様は人助けができたと言うて喜ぶぜ。たくさん喜ばしぃ。
 自分が選択したものに、気持ちようにこだわるんやったらえいがぞ。その気持ちえいこだわりが、おまんらを元気にしてくれらぁ」
 
 「あしらぁも、おんしらぁも闊達自在。自分が何を描くのかは、誰でも自由自在に選択できらぁ。
あしらぁが思う存分に描いても、この世界はいつも新鮮。皆が皆で楽しくなるような絵を描きぃ。新鮮な、自分らしい絵を描いたら、それをたっぷり楽しみや」

 「観音様は、あしらぁの意識の具体的な知恵と慈しみの働きぞね。あるがままの 『ある』 の感じを、そのまんまに観じ、それが働かれる場を指定すると、その場で 『ある』 という仕組みが活き活きと働かれる。これが、おまんらぁの生活に役立つ知恵と慈しみを活かす 『ありゆぅ波動』 のやり方ぞね。ほんきでやりや。ほいたら、またメールするきに」

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