濃密な命のエネルギー!それが自然に流れているバリ。
一部の人たちはバリに強く惹きつけられます。
「僕は魂を持った人々の住む国に行ってみたい・・・」と言うヴァルター・シュピースもそういう人でした。
■バリを訪れた人々を惹きつけるバリ絵画、 ケチャ・ダンス、バロンとランダの闘争を中心にした呪術劇チャロナラン…。これらはロシア生まれのドイツ人がバリ人と共につくったものだった。「バリ島芸術をつくった男―ヴァルター・シュピースの魔術的人生 」(平凡社新書)より。
■現代バリ芸術の礎を築いた異色のドイツ人画家、W・シュピースは、同時に、写真家、音楽家、舞踏家、ナチュラリストとしても活躍する類い希な才能の持ち主だった。画家ココシュカや映画監督ムルナウ、喜劇王チャップリンなどからも愛されたシュピース…。日本軍の爆撃によって四十六年の生涯を終えた彼が、神々の島で見た「夢の景色」とは。「バリ、夢の景色 ヴァルター・シュピース伝」より。
■「天はちょうどこのバリのようだと思えばいいんだよ。すっかり同じなんだ。同じ村があり、お寺(プラ)があり、王宮(プリ)がある。ただ天上では何でもみんなさかさまなんだ、川にうつる影みたいに。そうだ、バリは天の反映(かげ)なんだよ。わかるだろう?」「バリ島物語」より。

W・シュピース 1923年 ヨーロッパ時代の作品
ウブドのチャンプアン・ホテルにはシュピースの最初のアトリエがあり、今でも【ウォルター・シュピース・ハウス】として利用されています。チャンプアン・ホテルはまだ行ったことがありませんが、次にはぜひ入ってみたいと思っています。
彼の描いた絵は、「チャロナラン」という題の作品がバリにはたった一枚現存するのみ。アルマ(アグン・ライ美術館)にあります。こんなにもオリジナルが無いのは、シュピースは描いた絵をみんな人にあげてしまっていたようで、今ではそんなことはないでしょうが、当時は絵はかまどでマキを燃すときの炊きつけに使うものだったようです!今でもバリの美術館では絵が当たり前のようにむき出しで展示されていたりします。

W・シュピース 1938年
でもアルマでは嬉しくなるような出来事もありました!アルマの敷地内はステキなお庭になっています。植物好きの僕たちはアルマの庭で“植物の種”を拾い集めていたら、アルマで働いているおじさんが手伝ってくれて、何ていう名前の木の種か親切に教えてくれたのです♪この美術館は入場するとカフェでドリンクが一杯サービスされます。種を一緒に拾ってくれた職員のかたがにこやかにドリンクを運んで来てくれました。
日本に帰ってネットでアグン・ライ美術館(アルマ)を調べてびっくり!その職員のおじさんはアグン・ライさん本人だったのです!日本の常識ではありえないことが普通におこります。だからこの島が好きです。バリに行った皆さんみんながそうではありませんが、僕はこの島で温かい出来事をたくさん引き寄せます。
ちょっと脱線しました。
ヴィキイ バウムの「バリ島物語」があります。今のデンパサールには王国があり、バドゥンと呼ばれていました。そんな時代のお話です。バリを深く知りたい人にはお勧めの本です。そして読んだあとにはもっとバリを愛せずにはいられなくなると思います。
ヴィキイ バウム、彼女は手つかずのバリを体験したくて老医師ファビウス氏への紹介状をもって島にわたり、ファビウス氏はバリ人の真の生活を彼女に見せてくれます。
アメリカに帰ったヴィキイ バウムはホームシックにかかり、どうしてもまたバリに行きたくなる。ファビウス医師の元を訪れるのだが、彼はもうすでに亡くなっており、彼女のために残された日本製のブリキの箱には、日記や、風習と儀式に関するノート、メモ、オランダ人によるバリ征服を主題とした長編小説が入っており、これをまとめて出版したのが「バリ島物語」なのです。そして、ファビウス医師こそヴァルター・シュピースその人なのです。ファビウス医師が亡くなったあと「バリ島物語」の元になる資料を受け取ったことは作り話ですが、シュピースとバウムは知り合いであり、このとき、長年にわたりバリに滞在したものでなければ到底知ることのないバリの人びとの文化や社会をシュピースはバウム伝えていたわけです。
この物語はププタン(終末)と呼ばれる、死の行列を中心に書かれています。ププタンは実際にあった歴史的事実で、オランダのバリに対する征服のなかで、自らのあり方を守るため、数多くのバリ人が自殺をもって抗議した死の行進のことです。このことによりオランダはバリの人たちの誇りの高さを大事にしないと、上手に植民地化できないことを知らされます。そして誇り高く温和なバリの人たちを支配するには、よほど思慮深くしないとという配慮が今日あるような楽園としてのバリ島を生み出した。と本書ではされています。それもあるのでしょうが、“全ては神にささげるものだ”とするこの島独特の生きかた抜きには考えられないと僕は思っています。
シュピースは1925年に初めてバリを訪れると、その魅力に感化され、2年後に移住を決意。1928年にウブドのチャンプアン渓谷にアトリエを作る。その後、1938年には同性愛者の取締りが強まるなかでオランダ政府に逮捕、投獄される。翌年釈放されるが、1940年ドイツがオランダを占領すると、シュピースは敵性外国人として蘭印政府に捕えられる。1942年ほかの収容者たちとスマトラ島パンダンからセイロンへ移送される途中、日本軍機の攻撃を受け、インド洋上に没した。
1928?1938年。シュピースがバリを必要とした。バリがシュピースを必要とした。彼とバリがダンスを踊った約10年(逮捕以降も彼は絵を描いています)。シュピースは画家としてはもとより、現代バリ芸術の父としても知られる。1931年のパリ(バリでなくパリ)植民地博覧会では、バリのガムラン音楽と舞踊団、美術・工芸品を出展するのに尽力するなど、西洋へのバリ紹介でも大きな役割を果す。チャロナラン劇や
ケチャ を造りだしたのも彼。

MURIATIさんの作品。
王宮の装飾画として発展したバリ絵画史上最も古い画法でカルサン・スタイルと呼ばれる。
シュピースによってバリ絵画ルネッサンスが起きる前の画風です。
シュピースのアトリエに一人の少年がやってきて、全く違った形式・技法の絵を見て驚き、彼のアトリエに来るようになる。彼はその少年に絵を教え、これがバリ絵画ルネッサンスの始まりです。シュピースは遠近法を教え、自分達の生活を描くように教えます。これが村人たちに広がりウブドは芸術と芸能の村になります。

WIRANATAさんの作品(一部)
自分の住む世界に深くかかわり、世界とともに自分を変えていく。一人の人間のあり方により変わる世界を見るとき、どんな人にも宿るすばらしい力に感動を覚えずにはいられません!
シュピースは村人たちから愛され、投獄されたその日の夕刻にはシュピースの釈放を願い、牢獄の前では悲しみのガムランが演奏されたそうです。

W・シュピース 1939年
このブログのトップの絵も、実はヴァルター・シュピースの絵の一部なのですよ。